
平素は格別のご高配にあずかり厚く御礼申し上げます
さて このたび 弊社は本年2025年4月をもって創業100年の佳節を迎えることとなりました
これもひとえに皆様のご支援のおかげと心より感謝申し上げます
弊社左官事業は、1925(大正14)年に、代表取締役、眞下武志の祖父弟である、眞下弥平太氏が起業し、2013年、株式会社真下建材興業より事業譲渡を受け、通算100年を迎えました。
創業以来、様々に変化する社会環境において、常にお客様のニーズの先を読み、求められる新しいジャンルの左官工事にチャレンジし、日本の近代建築の発展と共に歩んでまいりました。
左官材料におきましても、古来よりの漆喰、昭和の高度成長期のセメント系モルタル材、近年のプラスチック系合成樹脂モルタル材等、多様な建材を経験しております。
現在は、
①鉄筋コンクリート構築物を主としたゼネコン様
②珪藻土塗り壁工事を主としたハウスメーカー様
③湿式外断熱工事・デラクリートセメントボード工事に携わる建材商社様
④ピンネット(タイル及びモルタル剝落防止)工事の専門工事業者様
から安定した工事発注を戴いております。
これからも、常に初心を忘れず、“お客様、社員、そして仲間”を大切にする、“真に社会から必要とされる会社”を目指して努力してまいります。
今後とも、ご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い申し上げます。
【代表取締役 挨拶】
【創業家 御挨拶】
【常務取締役 乾杯】
【歓 談】
【手締め】
【記念撮影】
歴史
奈良時代にはこの周辺は「武蔵国豊島郡湯島郷」と呼ばれていた。湯島郷は現在の豊島区西部、文京区、中央区北部南部あたりを占めるかなり広大な地域であった。
巣鴨の地名は古くから存在した。『武蔵国風土記』には足立郡巣鴨郷とあり、かつては足立郡に属した可能性もあるが、江戸時代までには豊島郡に属するようになった。
古くは洲鴨、須賀茂、須賀母、菅面、洲處面などとも書いたが、徳川吉宗により「巣鴨」に統一された。
巣鴨村は江戸時代には戸田領に属した。
さらに巣鴨村に属する地域のうち、中山道に接する地域は早くから町として発展し、1737年(元文2年)には巣鴨町上組・中組・下組として独立した。
明治時代当時最も賑わっていたのは大塚駅周辺で、東京府でも屈指の繁華街であった。
池袋駅周辺が発展を見せるのは戦後である。
特に関東大震災以降、東京市内からの移住者で人口が急増し、10万人を突破するまでになった。
町役場は時習尋常高等小学校内にあった(後に帝京平成大学池袋キャンパスが所在)。
沿革・年表
1873年(明治6年):大区小区制により巣鴨村、新田堀之内村、池袋村は大塚辻町、巣鴨仲町、巣鴨原町、その他本郷区、小石川区に属した諸町と共に第九大区二小区となる(戸長は大塚仲町)。
1878年(明治11年)11月:大区小区制が廃され、郡区町村編制法により北豊島郡が設置される。
郡役所は板橋町内に設置。
その後、連合戸長役場が設置され、巣鴨村、新田堀之内村は小石川村との三ヵ村連合と(連合戸長役場は巣鴨村)、池袋村は金井窪村、中丸村との三ヵ村連合となる(連合戸長役場は池袋村)。
1889年(明治22年)5月1日:市制町村制により、巣鴨村は一部を巣鴨町に譲り、残りの大半を新田堀之内村の全域と池袋村の飛地を除く大半及び堀之内村の飛地と合併し、巣鴨村となる。
1918年(大正7年)7月20日:巣鴨村が町制施行し西巣鴨町となる。
1932年(昭和7年)10月1日:東京市編入により、西巣鴨町は、巣鴨町、高田町、長崎町とともに豊島区となる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「眞風会」コレクション
前列右端が創業者である初代社長(故人)です。(業界の重鎮)
後列左から、初代社長(故人)、2代社長(故人)、初代専務(故人)
往年の名車 : オリエント オート三輪
監査役(故人)とコンクリート製のゴミ箱 (左に当時の都電が・・・・)
一時は『眞下建塗工業』と称していた時期もあったようです
左の子供は筆者です
足立寮の寮母(故人)の若き日のスナップ (土管も売ってました)
元資材管理担当者の若き日のスナップ
㏍真下建材興業5代目であった、JU社長の生まれる4日前から勤務している生き字引
巣鴨 地蔵通りの西詰
さくらトラム(旧都電荒川線)
新庚申塚駅に鎮座する猿田彦神社。
境内の手水舎(ちょうずや、てみずや)にあったのは
十数年前の営繕工事の際、許可を頂き、名入れさせていただきました。
これからも、
常に初心を忘れず、
“お客様、社員、そして仲間”を大切にする、
“真に社会から必要とされる会社”
を目指して努力してまいります。

がいこくじんぎのう